概要

■ 名称    青龍山 本覚寺

■ 宗派    日蓮宗(身延派)

■ 本尊    日蓮聖人奠定の大曼荼羅

■ 教義    法華経を所依の経典とし、法華経本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇の三大秘法を宗旨として、教義を弘め儀式行事を行い、信者を教化育成し、即身成仏・仏国土の実現を目的とする

■ 創立    徳治3年(1308年) 9月13日 

■ 寺域    約12000坪(境内3893坪、墓地2984坪、山林4567坪)

縁起

  日蓮大聖人の門下・中老僧の日位上人が徳治2年(1307)に時の領主から有度山(日本平と久能山からなる駿河湾に面する山)の麓、池田の地を譲り受け、翌年徳治3年(1308)に本覚寺を開創しました。

 「本覚寺」という名については、宗祖日蓮大聖人が、建治3年(1277)7月13日に日位上人の祖母にあたる妙位日禅尼(みょういにちぜんに)へ授与された『盂蘭盆御書(うらぼんごしょ)』と『十界曼荼羅己心本覚本尊(じっかいまんだらこしんほんがくほんぞん)(一幅)』に由来します。この本尊は、無始本有己心所具(むしほんぬこしんしょぐ)の本覚法身如来(ほんがくほっしんにょらい)であり、たいへん篤信であった妙位日禅尼に対し朝暮不退の唱題に備えるために与えられたもので、これに因んで当山は「本覚寺」と名付けられたということです。

 日位上人は、文保2年(1318)に示寂されるまでの約12年間、池田に住して弘教に努められました。その弟子の当山第2世 日厳上人は、関東管領 上杉頼重の子であり、また将軍 足利尊氏の外叔父でもありました。

 江戸時代(1600-1867)には将軍より朱印状を賜り、15万石の格式を擁していました。また、右大臣 西園寺家より宗門最高の袈裟法衣を永代着用することや、大名と同じ輿を使用することが許可されました。この輿は、今もなお当山に所蔵されております。本山として山内に八箇坊を有していたこともあり、それらの坊の名称が身延山の諸坊と同一のものがあったことから、かつて「駿河の身延」と呼ばれていたそうです。

 明治2年(1869)、当山に寄宿していた浪人の失火で総門・本堂・本仏堂・金毘羅宮を残してその他諸堂が焼失しましたが、その後、位牌堂・庫裡・宝蔵などを建立し、さらに総門を二王門跡に移しました。明治41年(1908)に鐘楼を再建、大正10年(1921)に参道を普請・拡張し、昭和62年(1987)には客殿を建て、長年の復興への取り組みを経て現在に至ります。

 日蓮宗門近代の高僧・杉田日布上人(元首相石橋湛山の父)は、明治27年(1894)から大正13年(1924)までの30年間、当山の第48世 住職として宗門の要職を歴任し、晩年は身延山第81世法主、日蓮宗管長など最高の地位に就いておられます。

開山 日位上人

  日位上人(治部公あるいは少輔阿闍梨(しょうあじゃり)とも称す)は、正嘉元年(1257)現在の静岡県富士市に生まれました。一説によれば駿州(静岡県)庵原郡南條平七郎の子だといいます。俗性は南條で、北条9代の一族といわれており、上人の家系が宗祖日蓮大聖人の直檀、すなわち上野殿といわれた南條時光公に属しているようです。

  上人は、幼少期は祖母にあたる妙位日禅尼(みょういにちぜんに)に養育されました。その妙位日禅尼というのがたいそう篤信で、伊東に流罪中の日蓮聖人を訪れたときには、当時まだ5歳の日位上人を伴われており、また、身延在山中には、しばしば登詣して米や野菜などの供物を贈っていました。そんな妙位日禅尼の行いや信仰心が日位上人に影響を与えたことは、後に本覚寺の開山に至ったことからも分かるでしょう。その後、日位上人は天台宗に出家して承賢と称し、四十九院(富士市岩本 実相寺の末寺。現在実相寺は日蓮宗)の住侶となりました。

  弘安元年(1278)、上人は22歳の時に改衣して日持上人に師事し、名を日位と改め、次いで日蓮聖人の門下となりました。弘安6年(1283)の「身延山久遠寺番帳事」によると六老僧に準じて和泉公日法と共に8月の輪番に充てられていることから、日蓮聖人のきわめて側近の弟子であったと思われます。日持上人、日興上人らと共に四十九院の厳誉上人と争い、正法弘通の意気に燃えたこともありました。日蓮聖人葬送に列し輪番勤役を執ったが、日興上人が身延を離山する前後に師日持上人と共に日興上人の下から離れ、その後は駿河地域(静岡市)を中心に布教に努めました。

  正応元年(1288)の春、岩渕の中之郷に小庵を結んで法華弘通の道場(仏道を修行する場所)を成しました。この庵室は、現在の等覚寺であり、また祖母の妙位日禅尼の屋敷跡だと伝えられています。

  永仁6年(1298)、府中 宮ケ崎に寺を移しますが、その境域は狭く道場とするには不適当であったので、徳治2年(1307)に時の領主から有度山の麓、池田の地を譲り受け、翌年、本覚寺を開創しました。それからは、本覚寺に住しながら弘教に努めました。その間、村松(現在の静岡市清水区)にある天台宗の峨岳寺を改宗し、その寺主の慈証は法号を日受に、山寺号を竜水山海上寺にそれぞれ改め、さらに後に現在の海長寺と改めました。そして、日位上人はその後海長寺を弟子の中老淡路阿闍梨 日賢に譲り、池田にて文保2年(1318)4月23日、享年62歳で遷化しました。